庶民感覚

裁判員制度について思うこと。

マスコミは確か、「裁判員制度なんて良く分からないし、突然呼び出されても仕事があって代理を立てられないから困る。」等々という「庶民感覚」を盾に裁判員制度には問題があると言っていたような気が。

まあそれはそれとして、初の裁判員裁判(すごく変な言葉だと思うけど)についてはニュースショーでもよく取り上げられていたし、必要性について考えた人も多かったのではないかと思うのだ。裁判員制度を作る段階から、必要性を説くのによく言われていたのがこの「庶民感覚」というやつで、分かるような分からないような、正当なような非合理なような、とてもあいまいな理由付けだったと思うのだ。

今回の裁判員裁判でもマスコミはこの「庶民感覚」というのを使って、今度は裁判員制度の有用性を語っていたように思う。「娘の形見のナイフを凶器にしたのはなぜか」「刺した後、なぜ救急車を呼ばなかったのか」という被告人に対する質問が法律の専門家からは出てこない「庶民感覚」の質問なんだそうな。
だから裁判員制度は有用なのだとか。

まあ、確かに裁判員制度は有用だと思う。でもその本質は法律の専門家でない人が「庶民感覚」を以って裁判に参加するからではなく、法律の専門家が人間性を失っているからではないのだろうか。
「娘の形見のナイフを凶器にしたのはなぜか」「刺した後、なぜ救急車を呼ばなかったのか」はいずれも「なぜ人の道に悖る(もとる)行動をとったのか」という意味で、そのような質問が出てこないような、つまり人間性に欠ける人が「法を司る」などと上から物言って人を裁いている現状が問題だということが今回の裁判員裁判で露呈したと思う。

そうなってしまった原因はおそらく、司法の場が「裁判官のプロ」の場ではなく「法律の専門家」の場になっているから。
もし会社という場で仕事をしている場合なら、ルールの専門家ばかりで業務のプロがいなければ仕事が回らないということに気付いて自浄作用(つまり業務のプロを採用するか育てようとする)が働くはず。でもこれまでの日本の司法という場で仕事をしている人たちにはそのような自浄作用が働くことはなく、人間性を持った、本当の裁判官のプロを育てようとすることはなかったのだろう。

本当は「私たちは法律の専門家であり、人間性を十分に身に付けていないので正しく人を裁けないかもしれません」と言うべきところを、「素人の庶民感覚を生かして、正しく人を裁きます」と言ってごまかしてるのだ。

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